宇宙こぼれ話

長尾 第2回 ロケット発射場の話(2)

「ロケット発射場の話(2)」

2 種子島宇宙センター整備の歴史

 前回種子島宇宙センターを例として発射場で使われる用語の説明をしましたが、今回はその整備の歴史について述べます。(前回からの続きであるため、図とか写真については、前回のものを番号ごと引用させて頂きます。)

 種子島に宇宙センターが作られることが決まったのは昭和41年のことである。その頃は宇宙開発事業団の前身である科学技術庁宇宙開発推進本部という国家機関の管轄であった。もともと東京都新島にある防衛庁の実験場で行っていた試験場所を移転するにあたり、将来の人工衛星打上げ場への発展も見据えて、場所を選定した結果である。最初は竹崎射場で小型ロケットによる基礎技術の開発のための打上げを昭和43年9月から行い、並行して大崎射場に中型ロケット発射場を整備し、昭和49年から打上げを開始した。(各発射場の位置は前回の図-1を参照のこと)

 竹崎射場における打上げは、平成10年までの30年間に合計94機、中型ロケット発射場からは平成8年までの22年間に合計27機の打上げを行った。中型ロケットとしては主に、N-Ⅰ、N-Ⅱ、H-Ⅰロケットにより人工衛星を打ち上げた。この3種類は第1段に同じロケットエンジンを使用したもので、同じ発射台・主要な発射施設・インフラが使用できた(必要なものは改修・増強)。

 続いて、打上げ能力をより向上させた大型ロケットとして、H-Ⅱロケットが開発されることになった。特に第1段の燃料に液体水素が採用されたり、発射台が移動方式になることもあり、新たな発射施設(Launch Complex)として、吉信大型ロケット発射場が建設された(中型ロケット発射場の東側、写真1-1、1-2)。大崎射場の各種インフラがかなり流用されたが、相当大規模な増強となった。

 H-Ⅱロケットは、平成6~11年に7機打ち上げられ、その後、徹底的にコストダウンと整備期間短縮を図り、平成13年にH-ⅡAロケットに移行し、さらに、平成21年から、打上げ能力を倍増して、国際宇宙ステーションに最大6.5トンの物資を輸送する補給機「こうのとり」に対応できるH-ⅡBロケットが加わった。平成27年度まででA、B合計35機を打ち上げた。(虎野社長のコラム「宇宙開発の現状と未来(第3回)宇宙と宇宙開発の歴史」も参照願います)

 それぞれのロケットに対応してかなりの規模の改修・増強が行われたが、ベースとなっている施設・インフラは流用したものであり、近年はその更新にも力を注いでいる状況である。
  また、同センターは発射場として広い敷地を有していて、安全距離(振動騒音環境含む)を十分とれること、インフラ・マンパワーを共有できることから、第1段目に使用する(推力の大きい)ロケットエンジンの地上燃焼試験設備も早期から併設し、試験を実施している。共有方式であるが故に作業干渉が生じるデメリットもあり発射場としては珍しい方である。

 「大崎射場」は、起伏のある丘陵を切り開いて各施設が整備されている(写真-2)。吉信大型ロケット発射場のある辺りは、昔「大崎部落」のあったところで、現在はその記念碑が建てられている。

図-2 大崎射場

写真-2 大崎射場(前回の図-1の「大崎射場」を南東の海側から見る。手前が吉信大型ロケット発射施設~奥側の白い建物が第2衛星フェアリング組立棟。写真の左上にはセンター外の道路が見えます)

 「竹崎射場」は、種子島の南東端の砂地に発射施設を整備し、北側に固体ロケット燃焼試験施設、丘陵部に総合指令棟などの施設が設置されている。(写真-3、-4)

写真-3 竹崎射場

写真-3 竹崎射場(東側から見る。陸上の手前の左側が竹崎射点、手前右側が固体ロケット燃焼試験場、真中の台地上に総合指令棟、その南側海岸(写真では左側)に竹崎観望台(プレスセンター・VIP等打上げの視察用)、(写真の上方の)西南西へ延びる海岸の先は「鉄砲伝来」で名高い「門倉岬」に達していて、光学観測所が設置されている)。

写真-4 南側から竹崎~大崎射場を見る

写真-4 南側から竹崎~大崎射場を見る(写真右側の南側海岸の竹崎観望台のすぐ脇に漁港のあるのが分かりますね。また写真の左側手前のセンターの入口を出たすぐの集落は竹崎部落、左端部集落は阿多羅経部落です)

 今回は、まず種子島宇宙センターについての一般的な紹介をしましたが、次回以降、海外の例を中心に色々書いてみたいと思っています。
(引用文献;「土木技術」第71巻 第2号 p9~10、写真はJAXA提供)

長尾隆治
執筆者
取締役 技師長長尾隆治